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​織田信長公より開山 聖誉貞安上人に賜う

​門出八幡宮

​かどではちまんぐう

​鎮守社

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焔魔法王尊像縁起
​文政6年(1823)

​門出八幡宮・傳教大師作 立像 御丈
と書かれています
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鑑 査 状
明治24年(1891)

門出八幡宮立像・傳 傳教大師作 木 丈壹尺貮寸
と​書かれています

門出八幡宮の御神体は戦国時代に織田信長公より開山貞安上人に賜うと伝わります。

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甲冑を着け右手は刀印を結び左手に弓を持ちます。

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背中と長靴に虎の模様を現わしています。

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八幡神が出陣の姿と見て門出八幡宮(かどではちまんぐう)と申し上げます。

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八幡神は仏法守護の神様であり、当寺では伽藍守護の鎮守様として堂内でお祀りしていましたが、この度境内に社を設け鎮守社としてお祀りすることになりました。

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また江戸時代より「門出八幡宮家内守護所」の御札を配り、交通安全・家内安全・身体健康・出世開運の御利益があるとされます。

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この像は体に対して御顔がやや右を向いています。また背中と長靴に虎の模様を現わします。
これについて長年気にかかっていたのですが、おそらくはこの像は薬師如来十二神将の一体ではないかと考えています。

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これは単独でお祀りされる像ではなく、奈良の新薬師寺のように薬師如来を中心に周囲をぐるりと取り囲んで配置される十二神将像ではないか。その為、御顔が正面ではなく斜め右を向いている。

十二神将は薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、また十二の方角を守るといいます。
その為それぞれに干支の十二支が配当され、当寺の像の虎の模様は、寅の時刻、寅の月、寅の方角を守る『仏像図彙』に拠れば真達羅大将ではないかと思われます。
ただし十二支の虎の模様に注目すれば真達羅大将、持物の弓に注目すれば波夷羅大将になります。
十二神将の像容と持ち物は教典により異なり最終的に仏師の意匠に依るそうです。

十二神将が何故八幡神になったかについては、八幡神は弓矢の神として源氏や平氏など武家から武運の神「弓矢八幡」として崇敬を集めました。


当寺の像も甲冑をつけ弓を持っている姿、そして何より戦国武将である織田信長公より賜ったことから武神としての門出八幡神となったのではないかと思います。


文政六年(1823)の古文書にも「門出八幡宮」と載っています。また明治24年の鑑査状にも「門出八幡宮」と載っています。

現在ではお寺に鳥居は珍しいですが、江戸時代以前は多くの寺院で伽藍守護のために神様をお祀りする鎮守社が造られました。

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当寺の開山貞安上人は織田信長・信忠父子の菩提を弔うため、大雲院を開創したとき、六条に祀られていた天神様をその鎮守社として祀られました。
京の度重なる大火でも類焼をまぬがれたことから「火除天満宮」と称されました。
その後、明治初期の神仏分離令により火除天満宮と大雲院が分かれ、大雲院は京都東山祇園南に移転するも火除天満宮はそのまま京都市下京区貞安前之町寺町通四条下ルに残りました。

現在でも大きなお寺に鎮守社として神様をお祀りし、鳥居が建っている寺院は珍しいことではありません。
 

戦前は「門出八幡宮家内守護所」のお札を配りそれなりに知られ、お参りもあったのですが戦後「身代釜敷地蔵尊」と共にすっかり忘れ去られ今日に至ります。

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以前は地蔵堂に安置していたのですが、地蔵堂が老朽化のため現在は本堂に安置しています。
この度、境内に社(やしろ)を設け勝念寺の伽藍守護の鎮守社としてお祀りすることにしました。

 

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また昔のように広く一般の方にもお参りして頂く様に、当寺のような小さなお寺に似合わず大きな鳥居を建てています。

 

永く門出八幡宮としてお祀りしてきた御像です。これからも八幡様としてお寺を守っていただきますようにお祈りしていきます。
 

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