top of page

​織田信長公より開山 聖誉貞安上人に賜う

閻魔法王自作霊像

s-3.jpg
焔魔法王尊像縁起
​文政6年(1823)
​焔魔法王尊像
冥主焔王​真作御丈一寸八分
貞安自筆安誉江譲状添と
書かれています

平成29年2月、昭和女子大学教授 関口静雄先生が論文「京伏見安養山勝念寺蔵『焔魔法王尊像縁起』翻刻と解題」を研究誌「学苑」に寄稿されました。

勝念寺の閻魔法王像は御丈一寸八分宝冠より足まで 5,4cm 足下の台を入れると6,6cmです。足下の台まで一木で彫られています。)、手のひらに握れるほどの小像であり、他の多くの閻魔像が忿怒の相を表わすのに対して珍らしく穏やかな慈悲の相を表わしています。

 

これは昔、摂津の国の清澄寺(現 宝塚清荒神)の慈心房尊恵という僧が承安二年(一一七二)十二月二十一日に頓死して閻魔庁の法会に招かれた時、閻魔法王より世の多くの人が「善因善果 悪因悪果 自因自果」の因果の道理を信ぜず、平気で悪いことを行い地獄へと落ちていくことを深く憂い、これを世の人に示せと閻魔法王自ら「妻子王位財眷属 死去無一来相親 常随業鬼繁伝我 受苦叫喚無辺際」(妻子や王位、財産や従者たちも、死んでしまったら、ひとつとして附いてくるものはない。どこまでもついてくるのは生前の罪業の鬼だけで、それが我が身を束縛して、再現もなく苦しみを受けさせ、叫び喚かせる)の偈文を書き記し、慈心坊尊恵に託しました。

 

さらに慈心房尊恵は世の人に閻魔の実在を知らしめる爲、因果の道理を知らしめる為に閻魔の真の姿を請うと、閻魔法王は地獄に行くような悪い行いを止めて、善い行いをして、皆が極楽に行くことが閻魔の願いであり、閻魔の真の心は慈悲の心であることを示すため、閻魔法王自ら松の木の枝に穏やかな慈悲の相に彫り慈心房尊恵に授けました。

 

目を覚ますと掌にこの像を握っていました。それよりこの閻魔像を昼夜拝んでいました。その後伊勢大神宮へ参詣の後、伊賀上野の留まり、この閻魔法王自作霊像を安置して勤行怠らずしていれば、世の人みな十王堂の聖と称しました。遂にこの地で往生を遂げました。
 

 

 

数百年後、戦国時代、織田信長公は伊賀上野へ鷹狩に出かけた時、この像を拝見し城内へ持ち帰り、厚く信仰しました。
天正七年五月二十七日安土宗論の嚫施としてこの閻魔法王自作霊像を織田信長公より貞安上人に賜りました。

さらに貞安上人は弟子の当寺第二世安譽貞保上人に授け、以後、代々勝念寺に「閻魔法王自作霊像」が伝わります。

そもそも、閻魔法王が尊恵に自作像を授けた因縁は応和三年(963)に南都の松室仲算と北嶺の慈恵僧正の宗論に因ります。

 

宗論に負けた慈恵僧正は平清盛に化生して南都を焼き、清盛は焼仏の罪で無限地獄に落ちました。地獄に落ちた清盛を憐れんだ閻魔法王は清盛追善の嚫施として尊恵に閻魔自作像を授けたのであり、信長は安土宗論の嚫施として、この閻魔像を貞安上人に授けました。


『焔魔法王尊像縁起』では、このことは因縁不思議という外はなく、貞安上人は尊恵の再来であるされ、

 

本朝無双のこの尊像は仰いでもあおぐべく、貴みてもとうとむべし、極悪深重の衆生値遇の結縁をなし、二世の悉事をいのり奉るべきもの也と結んでいます。

閻魔法王自作霊像
織田信長公より賜う
閻魔法王自作霊像
閻魔像譲与狀
閻 魔 像 譲 与 状
慶長二十年(1615)

十王像(閻魔像)を貞安上人が弟子安誉上人へ譲り渡す書状

西光寺安誉は後に勝念寺を譲られて当寺第二世になります
 

閻魔法王自作霊像については、天正7年(1579)に貞安上人が織田信長公より閻魔法王像を賜て後、117年後の元禄9年(1696)に書かれた蓮門精舎舊詞(元禄・享保年間に全国浄土宗寺院の沿革を調査記録したもの)に閻魔法王像について記述があります。

近江八幡西光寺の項に、「信長公命而建立一宇安土田中 龍龜山西光寺則使貞安爲開山主 寄附寺領並閻魔王之像 公巡駕諸寺聞法三度 故當寺有御所間次間等號」とあり、
さらに勝念寺の項に、「一霊寶中有閻魔王像 長一寸八分 是攝州清澄寺慈心坊尊恵 承安二年十一月二十一日頓死 翌日蘇生 語云 我依請 到閻宮列法花經轉読會座 退去時 閻王嚫施賜此像 即出手中 世傳 一信長公有御所持 賜貞安 貞安弟子安譽賜此像 令安置當寺」とあります。
そして慶長二十年(1615)に、貞安上人から弟子西光寺安譽上人に十王像(閻魔像)の譲与状があります。
 
即ち、織田信長公の命に依って、安土田中に寺領を寄進し貞安上人に西光寺の開山主に爲さしめ、同時に、織田信長公御所持の閻魔法王像を貞安上人に賜った。
貞安上人は、本能寺の変により自刃した織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、京に大雲院を開創。
同時に豊臣秀吉の城下町 伏見に勝念寺を創建。
慶長二十年に貞安上人から西光寺に居た弟子安譽貞保上人に十王像(閻魔像)を譲与された。
 勝念寺蔵『焔魔法王尊像縁起』より
​「貞安和尚此尊像尊敬し奉られけるを弟子安誉渇仰他にことなるによりて安誉へふそくし給ふ授与の文
 従織田信長樣我等被下置候十王雖為重
 寶令譲与弟子心蓮社安誉候畢能〃奉敬
 可有衆生濟度者也仍而如件
       大雲院開山教蓮社聖誉
 慶長廿年夘夘月十四日      貞安判
      西光寺安誉
          参
右授与の文貞安和尚直筆則當寺(勝念寺)有之
(慶長二十年)同年五月十六日東照宮の依招請二条御城内におゐて拝謁法談し給ひ 月すへより異例の心地有により安誉を招たまひ當寺(勝念寺)をふそくし住持候へとのたまふ故安誉有難く領承して則西光寺より當寺(勝念寺)へ移住し什物等将來候也 夫より此焔魔法王尊像第一の什物として諸人に結縁せしむるもの也」
則ち、伏見勝念寺を貞安上人より西光寺安譽貞保上人に譲られた時、此の閻魔像及び他宝物も西光寺より勝念寺にもたらされたと考えられます。

bottom of page