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​織田信長公より開山 聖誉貞安上人に賜う

身代釜敷地蔵尊

​かましきさん

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焔魔法王尊像縁起
​文政6年(1823)
​身代釜敷地蔵尊・恵心作
俗ニ獄中歩行之地蔵ト云と
書かれています
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鑑 査 状
明治24年(1891)
地蔵立像 傳恵心作
丈三尺・光背八寸・蓮坐貮寸五分と
​書かれています

身代釜敷地蔵尊については、由緒や縁起書は有りません。安永七年(一七七九)火災により焼けてしまったのかも知れません。

ただ、開山貞安上人が織田信長公より賜ったと伝えています。

当山第十四世諦譽義禅上人代、文政年間に師僧 京二条専念寺第十七世常恭敬院殿順阿隆圓大和尚より、この身代釜敷地蔵尊と閻魔法王の御影の版木が贈られ、以来この二像のお札が多くの人々に配られました。 

第二次大戦の時には、出征兵士の家族が鉄砲の弾を身代りに受けて下さると、身代釜敷地蔵尊のお札が、また、たとえ戦死しても、お国のために戦かったことを証明して下さると、閻魔法王のお札がもとめられました。

往時には、近隣遠くは京田辺あたりからも熱心な信者のお参りもあり、縁日に屋台が出て賑わったと聞きます。

当寺では昔、檀家さんとは別に身代釜敷地蔵尊の信者さんがおられました。釜敷地蔵尊の提灯を入れた箱には大きく「講中」と書かれており、信者さんの組織が有ったのかも知れません。

昭和三十年初め頃まで地蔵堂の前で毎月熱心に拝んでいる人達がおられました。

先々代の住職によると西の方(長岡京市や向日市あたり)から歩いてお詣りに来られたそうです。

逆に、こちら(伏見)の人達は歩いて柳谷の観音さん(楊谷寺) までお詣りに行かれたそうです。

おそらく往復半日がかりでしょう。さすがに昔の人達は、信仰に篤く、また足腰をよく鍛えておられたと感心しました。


安永七年(一七七八)に本堂庫裏共に焼失しましたが、この二像は表境内土蔵(地蔵堂)に安置されていた為に幸い難を逃れ今日に伝わります。勝念寺開創当時を物語る貴重な霊宝です。

身代釜敷地蔵尊は、地獄で釜茹でにされて苦しんでいる人の身代わりとなって、 自ら煮えたぎる釜の中に入り、苦しむ人の苦を取り除き安楽にそして、 幸せへと導いて下さるお地蔵様です。「かましきさん」と呼ばれ江戸時代より信仰を集めています。


身代釜敷地蔵尊(かましきさん)は、遠く戦国時代 勝念寺開山貞安上人に深く帰依した織田信長公より賜ったと伝える。身上三尺臺二重(鎌倉時代作) 釜の中に蓮華あり、この上に延命地蔵尊立ち給う故に、釜敷延命地蔵尊という。地獄で釜茹での責めに苦しむ人の身代わりとなって、自ら煮えたぎった釜の中に入り、地獄と此の世で苦しむ人の苦を取り除き、幸せへと導き給う故に、代重苦、身代地蔵尊という。

代重苦とは代受苦ともいい、他人の苦しみを自分が代わって受けて、相手の苦しみを和らげ除いてあげることです。仏心とは大慈悲といい「抜苦与楽」とも訳され、他人の苦しみを抜き除いて楽にしてあげることです。我々多くの人は他人が苦しんでいるのを見ても、見てみぬふりをして通り過ぎるか、せめて、なんとお気の毒なことよと同情するのがせいぜいですが、仏様、菩薩様の慈悲の御心は、見て見ぬふりをしたり、放っておけない同体大悲の思いやりの心であります。

この世で苦しむ衆生から、さらに地獄に堕ちて苦しんでいる人の傍に寄って、その人の身代りになって苦しんで下さる、それが代重苦、身代釜敷地蔵尊(かましきさん)です。

地蔵堂
門前石碑

仏、菩薩に限らず、我々でも本当に親しい愛する人が苦しんでいるのを見たとき、 何とかしてその苦しみをとってあげたい、いよいよの時には自分が代わって少しでもその人を楽にしてあげたいと思う心が動く。 

 
幼いわが子が高熱を発し苦しんでいるとき出来たら自分が代わってやりたい思う。古来どれだけ多くの母親が危篤のわが子の枕元で、自分の生命と引き換えでよいから、どうぞこの子を救って欲しいと神仏に祈ったことでしょう。まさに代受苦の願いです。この母の心を我が心とされた仏様こそこの代重苦、身代釜敷地蔵尊(かましきさん)なのです。

 

身代釜敷地蔵尊(かましきさん)は、苦しんで生きてる人々のために災厄を一身に背負い身代りになって下さっているのであり、これは偏に私たち一人一人の幸せを願ってのことであります。

 

身代釜敷地蔵尊(かましきさん)の、この尊い願いに触れると共に、その功徳にあやかり、幸福で豊かに生きていくためにも、皆様お揃いでご参詣し、厄除けをされることをお勧めいたします。


毎年、四月八日には釜敷地蔵尊供養会が十時三十分より開かれ、この版木から摺った身代釜敷地蔵尊と閻魔法王の御影のお札が授与されます。

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