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​天明義民 柴屋伊兵衛

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門前碑

両親と先祖の墓

永代回向の文

柴屋伊兵衛(町年寄 姓 江森氏 伏見京町南八丁目 薪炭商)

天明七年九月二十三日 京都町奉行所東役所にて牢死

 

     戒名 正譽義山淨因信士

 

 

寺の門前に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」の碑が建っています。これは勝念寺の檀家である柴屋伊兵衛が、天明年間、当時の伏見奉行 小堀政方の悪政により伏見の町が衰退するのを憂いて、文殊九助ら他の義民と共に直訴の計画に加わり、遂には捕らわれて天明七年九月二十三日に京都町奉行所東役所にて牢死しました。

明治以降、伏見の町のために身命を賭して奔走した人たちを義民として顕彰しょうという運動が起こり、当寺が義民柴屋伊兵衛の菩提寺であることが知られ、門前の碑が建てられました。

江戸時代 伏見は西国船の始終の所であり、町の南は大川に接し三十石船が京橋口に着津し、町の西には高瀬川が流れ、高瀬舟が京都伏見を往復して京大阪の人や荷物を運んでいました。伏見城の外濠、河岸通には木材、米穀、薪炭等の大きな問屋が軒を並べていました。町を構成する主力は問屋、運送業、旅籠であり、大きな商人も少なくなく経済的に豊かな町でした。ために幕府の直轄地として奉行所が置かれました。

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安永八年(1779)に奉行となった小堀政方は、天明飢饉の最中に商人や交運を営む人々からの横領、膨大な御用金強制調達、町民への過酷な課税、百姓への強制年貢取立、巨椋池の漁業権の剥奪など悪政を行い、その利権で日夜放蕩を繰り返し、伏見の町民を苦しめていました。思い余って侍医水島幸庵が諌言したものの、聴き入れられず幸庵は自刃して果てました。
 

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天明五年(1785)耐えかねた町年寄七人は密かに協議を重ね、ついに天下の禁を破って幕府に直訴することを決意しました。代表、文殊九助・丸屋九兵衛・麹屋伝兵衛ら三名は幕府に直訴するために江戸に上りました。奉行の追手を逃れ、陽岳寺に逃げ込み住職の照道和尚に助けられますが、伝兵衛は重病に陥り病死しました。九月二十六日九助・九兵衛の二名で、ついに寺社奉行の松平伯耆守の奉行駕籠に向かって決死の直訴をしました。 

直訴は聞き入れられ、やっと小堀政方は罷免せられ、領地没収、お家改易となり伏見町人の一応の目的は達せられました。しかし、幕府もこのようなことが全国的に広がるのを恐れて、伏見では関係した者二百余名が厳罰に処され、四人が牢死。直訴した九助・九兵衛も再吟味のため江戸送りとなり、取調べ中に牢死しました。

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直訴とは、定められた合法的手続きを踏まず、順序をとび越え直接お上に訴えることをいい、それは封建秩序を乱すため禁止されていたので、ことの成否にかかわらず訴願人は処刑されました。  

天明伏見義民の事は幕府の目を恐れて密かに町民の間に語り継がれましたが、明治以降、伏見の町のために身命を賭して奔走した人たちを義民として顕彰しょうという運動が起こり、御香宮境内にも明治二十年に勝海舟の撰による伏見義民碑が建てられました。

柴屋伊兵衛の位牌

     位 牌 裏 
  施 主  伏 見 義 民 會
京 にて 没 すと 書 か れて いる

伊兵衛の両親の位牌

伊 兵 衛 が 両 親 の 為 に
回 向 料 を 収 めて 造 った

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また当寺が義民柴屋伊兵衛の菩提寺であることが知られ、門前の碑の裏には「大正五年九月発見建之」と記されています。柴屋伊兵衛は直訴当時すでに高齢であり、詳しい役割は分かりませんが、江戸に向った九助、九兵衛らに伏見の様子を知らせる等しています。

碑には柴屋伊兵衛墓所とありますが、伊兵衛のお墓は当寺には在りません。当時直訴は大罪であり、伊兵衛は罪人として他所に葬られました。

しかし柴屋伊兵衛は、直訴にあたり死を覚悟して、永代回向料として藪地を当寺に寄進し、両親と先祖の墓を当寺に残しました。両親の墓の裏には「永代常回向並墓所花卉 爲糧藪地寄附之」と書かれています。

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当寺過去帳の柴屋伊兵衛の死亡年月日の所に「火」と書かれています。
当時、町中でも土葬が一般的で火葬は手間も費用も掛かるので経済的に余裕のある家が火葬を行いました。
柴屋伊兵衛は町年寄ですので経済的には恵まれているので普通なれば火葬も不思議ではないのですが。


当時、直訴は大罪です。それが火葬という丁重な葬送は何を意味するのでしょうか。「柴屋伊兵衛のお墓は当寺には有りません。伊兵衛は罪人として他所に葬られました。」と書いているのですが、牢死した遺体を遺族が引き取り火葬にしたのでしょうか。


菩提寺の過去帳に「火」と書いているのは菩提寺勝念寺が葬儀をしたのでしょうか。戒名も町人としては立派な戒名が付いています。
「直訴」「罪人」というイメージから、今までの思っていたことと違うようです。

 

当然に当時の伏見の町衆は町の為に命を懸けた彼らの義挙に対して大いに感謝しているのですが、お上を恐れて表立って英雄視出来ませんでした。

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