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伊賀上野の閻魔像

閻魔法王尊像縁起には織田信長公が伊賀上野で閻魔像を手に入れ天正七年に開山貞安上人が賜ったと書かれています。

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​勝念寺蔵 閻魔法王尊像縁起

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此の伊賀上野に天台宗の常住寺があり慈心坊尊恵伝説を持った一寸八分の閻魔像が祀られています。

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この常住寺の閻魔像について「冥途蘇生記」という縁起が所蔵されています。

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内容は勝念寺の「閻魔法王尊像縁起」とよく似ており「閻魔が松材にて真影を自刻」など一致します。

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この常住寺閻魔像について調べていくと天正六年(1578年)から天正九年(1581)にかけて織田信長が伊賀の国を攻めた天正伊賀の乱と関係が在るように思います。

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天正伊賀の乱の約100年後に伊賀で語られていた伊賀の乱の様子を集めて著した「伊乱記」には「常住寺の本尊 閻魔像は閻魔自刻の像で、慈心坊尊恵が伊勢参宮の帰路に伊賀長田の百田氏の家に宿り、病にて臨終の間際にこの閻魔像を百田氏に与えた。


後に百田氏の秘仏となった閻魔像を国司の仁木友梅(義視)が拝見を望み借り出す。しかし、そのまま返さないため百田氏の配下、伊賀衆が仁木を攻め伊賀から追い出した。それが天正五年(1577)5月のこと」とあります。

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また筒井定次の治世を含む伊賀国内の歴史や由来を記述した「伊賀旧考」に「仁木友梅(義視)は常住寺の本尊閻魔王の像を貪り取ろうとするが敗退して甲賀に隠れた。織田信長の扶持を得て伊賀の様子を注進した。」と書かれています。

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さらに天正九年九月伊賀の乱の時に、仁木友梅(義視)は織田軍に加わり伊賀を攻め九月二十七日に討死をしました。

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仁木友梅(義視)が織田信長に閻魔像を献上したという記述は有りませんが、閻魔王の像を貪り取ろうとした仁木友梅(義視)と織田信長の接点が明らかになりました。

天正伊賀の乱の後、伊賀の戦後復興をしたのは筒井定次で、その後を継いだのは藤堂高虎・高次です。

 

乱後の常住寺については、 昭和女子大学 阿部美香先生の「唐招提寺蔵『伊州長田十王堂供由緒書』について」という論文に詳しく書かれています。

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天正九年(1581)の天正伊賀の乱で灰塵に帰した常住寺を再建したのは、天正十三年(1585)に伊賀守に任じられた筒井定次で筒井順慶の養子となった人物です。常住寺は当時「伊州長田十王堂」と呼ばれ、筒井定次は慶長七年(1602)九月に十王堂の落慶法要と定次の亡母の三十三回忌供養を行いました。

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その時に本尊前で読み上げる表白文の草稿が残っています。

それには「筒井定次が亡母の三十三回忌にあたり、菩提に資するため十王堂の伽藍を再興し、本尊たる十王(閻魔像)を彫刻し、大乗妙典の読誦供養を行う」趣旨が書かれています。

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しかし筒井定次は慶長十三年(1608)改易となり、次に藤堂高虎がこの地を治めました。

 

二代目藩主藤堂高次が常住寺の再興を行い閻魔堂とも呼ばれ修繕を重ねて今日に及びます。

 

藤堂高次が再興した閻魔堂の軒札には「古堂筒井伊賀守御建立」と書かれています。

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これに依り現在の常住寺は伊賀の乱で灰塵に帰した十王堂(常住寺)を慶長七年(1602)に再興した筒井定次以後の寺院と言えます。

織田信長公がいつどのようにして伊賀から閻魔像を手に入れたかについて調べていくと、「天正伊賀の乱」「常住寺」「百田氏」「仁木氏」「織田信長」など幾つかのキーワードが線で繫がってきます。

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しかし仁木友梅(義視)が執拗に閻魔像を欲したのは何故でしょうか、当時戦国大名は珍しい茶器を追い求めました。それを献上することも有りました。
当時茶室に小さな仏像を祀るのではなく、飾るようなことが有ったのでしょうか。

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信長公は何故小さな閻魔像を所持していたのでしょうか。まだまだ謎はあります。


更に調べていって明らかにしたいと思います。

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