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東海道五十七次(伏見宿)

勝念寺の門前の丹波橋通は東海道五十七次の街道筋にあたります。

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大田南畝(大田蜀山人)『壬戌紀行』享和二年(一八〇三)三月二十二日の項には、

「二二日。よべり雨はれ、暁のほしきらきらとみゆるにうれしく、夜あけてやどりを出つつ町なみを見るに、小家がちにわびしきまま也。おやき、餅也。深草焼、絵草子類、火打鎌などひさぐ家多し。「城州伏見住文殊四朗包光」とかきし標ある鍛冶あり。

勝念寺などいふ寺もみゆ。「左京大仏街道大津道、右京橋ふねのり場」といふ石もたてり。あないもの、「ここは橦木町とて、いにしへうかれめのふしどなるが、今あれたるさまみよ」といふに、竹の林、麦のはたあり。」とあります。

昔は、勝念寺の門前は有名無名の旅人が多く行き来して賑わった処でした。

「歩いてみよう!大阪~大津ルート東海道57次イラストマップ」

「歩いてみよう!大阪~大津ルート東海道57次イラストマップ」より転載

東海道五十七次とは

以下「歩いてみよう!大阪~大津ルート東海道57次イラストマップ」 発行 枚方文化観光協会 より転載

豊臣秀吉は伏見に城を築くと、大坂と伏見の間の往来を円滑にするため、淀川沿いに堤防と道路を兼ねた「文禄堤」を築きました。

徳川幕府は、江戸から京都までを東海道として整備しさらに文禄堤をその延長として伏見、淀、枚方、守口に宿を備え、大坂への道を確保しました。つまり東海道は五十七次だったのです。

「歩いてみよう!大阪~大津ルート東海道57次イラストマップ」

「歩いてみよう!大阪~大津ルート東海道57次イラストマップ」より転載

ただあまりに広重の「五十三次」という言葉が有名になり過ぎてしまったことと、上方の人々が好んで「京街道」とよんでいたために、残り4宿が東海道であるという認識が薄れてしまったのでしょう。ところで「京街道」といいますが、京都に向かう街道は「京街道」であり、逆に伏見から大坂に向かえば「大坂街道」となります。

伏見・大坂間が東海道としての認識が薄い原因のもう一つの理由に、淀川の舟運があげられるでしょう。先に述べた秀吉の改修工事で、かっては淀津までだった淀川の舟運が、伏見港まで伸び、乗客28人船頭4人の三十石船が一日2回、昼と夜に往復していました。下りは6時間、上りは時間も料金も倍になるので、往来する人は、上りは東海道を歩き、下りは船で下るのが常でした。

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