浄 土 宗
京都 伏見 勝念寺 かましきさん
織田信長公より開山 聖誉貞安上人に賜う
女性守護の仏様
多 羅 観 音 菩 薩
勝念寺の多羅観音菩薩はチベット仏教の緑多羅菩薩という仏様で、中国の元時代から明代初期、十三世紀後半から十四世紀の造像と推定されます。
![]() 金銅多羅観音菩薩坐像織田信長公より開山貞安上人に賜う | ![]() 金銅多羅観音菩薩坐像 |
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![]() 金銅多羅観音菩薩坐像 | ![]() 金銅多羅観音菩薩坐像 |
![]() 金銅多羅観音菩薩坐像 | ![]() 金銅多羅観音菩薩坐像 |
![]() 金銅多羅観音菩薩坐像 | ![]() 金銅多羅観音菩薩坐像 |
![]() 多羅観音前立ネパールで造られた新しい緑ターラー像 | ![]() 緑ターラー像(多羅観音脇仏)ネパールで造られた新しい緑ターラー像 |
![]() 白ターラー像(多羅観音脇仏)ネパールで造られた新しい白ターラー像 | ![]() 十一面千手千眼観世音菩薩(多羅観音脇仏)ネパールで造られた新しい十一面千手千眼観世音菩薩 |
多羅菩薩は、観音菩薩の瞳から生まれたとされる美しい仏様で、観音菩薩の救済に漏れた衆生をも残らず済度する菩薩としてチベットで広く信仰されています。
また多羅菩薩は女性の身体と心のままで成仏するという誓願を発し、これを実現した女性尊とされます。
チベットでは女児が誕生すると多羅菩薩の尊徳にあやかってドルマ(多羅菩薩のチベット名)という名をつける風習が現在でもあります。
多羅菩薩 御真言
蔵 訳 仏 典
聖救度佛母二十一種禮讚經
根本十字真言
ཨོཾ་ཏཱ་རེ་ཏུཏྟཱ་རེ་ཏུ་རེ་སྭཱཧཱ།།
オーム・ターレ・トゥッターレ・トゥレ・スヴァーハー

鑑 査 状
明治24年(1891)
如意輪観音坐像 傳天竺作と
書かれています

焔魔法王尊像縁起
文政6年(1823)
金銅像観世音 天竺佛座像と
書かれています
当寺の多羅観音像は、金銅天竺仏坐像 御丈五寸(15cm) 蓮座二寸(6cm) 文政六年(1823)の古文書には、金銅像観世音 天竺佛座像と書かれています。また明治二十四年(1891)の鑑査状には如意輪観音座像 傳天竺作と書かれています。
しかし、その像容、手の印相から、チベット仏教で信仰されている「緑多羅菩薩(緑度母)」(多羅観音)と判明しました。


織田信長公より開山貞安上人に賜う
金銅多羅観音菩薩座像 勝念寺蔵
新しくネパールで造られた
緑多羅菩薩座像 勝念寺蔵
上記の右写真は、新しくネパールで造られた 緑ターラー像です。両手の印相、足の組方、右足を垂らしている、胸に架かる首飾り、胸の膨らみ(16歳の女性を現しています)、左の写真はわずかに胸が膨らんでいます。右は両腕にを優曇華を持っています、左は有りませんが横棒が出ており、元は優曇華が有った痕跡です。宝冠や全体の像容等から、チベット仏教で信仰されている「緑多羅菩薩(緑度母)」(多羅観音)と考えられます。
開山貞安上人が織田信長公より賜ったと伝えています。この仏様がいつ頃何処で造られ、何処で祀られ、どの様な経緯で織田信長公の手に届き、開山貞安上人に授けられたのか、興味が尽きません。お顔が如何にも異国風であり、信長公当時の戦国時代、ルソンの壺のように外国との交易が盛んな頃に、千利休のような堺の商人などにより異国から伝えられた仏様と思われます。
勝念寺の多羅観音について以下の論文に詳しく書かれています。
関西大学大学院 東アジア文化研究科・文化交渉学専攻
索南 卓瑪 著
『東アジア仏教における多羅信仰と文化交渉』
「第八章 第四節 京都勝念寺における多羅観音菩薩」180p~190p
論文の要約
◎
勝念寺の多羅菩薩像は中国の元時代から明代の初期(13世紀後半から14世紀)の図像と非常に類似している。
即ち、元時代のチベット仏教芸術はネパール芸術が主流である。
ネパールの造像の特徴
1、
仏像は一般的に小さく持ち運びに便利に造らているため流伝も広い。
2、
制作の材料は赤胴で多種な宝石を嵌め込み、表面は金鍍金であるが、信者が触り鍍金や石が落ちる場合が多い。
3、
衣襟や袖口、関節の所は簡単に装飾し、服装は完全に体に張り付いている。
4、
顔の形も上が広く下が狭くなっていると同時に豊満でまろやかである。