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​開山 聖誉貞安上人

勝念寺開山教蓮社聖譽上人退魯貞安大和尚は天文八年(一五三九)三月七日、相模国三浦郡黒沼郷に後北条氏の一族として生まれる。父は北条能登守満教、母は大江正時の女という。四歳で母を亡くし、五歳で父と死別し、姨母に養育された。 

七歳で小田原大蓮寺の一蓮社堯誉上人還魯文宗大和尚の室に入り、十一歳で剃髪。十四歳の時、師の尭譽上人が飯沼の弘経寺へ転任するに従って貞安上人も弘経寺へ移った。宗戒両脈を同寺七世各蓮社見誉上人退堂善悦大和尚より禀ける。元亀三年七月三日香衣綸旨拝載のため上京。天正元年(一五七三)には三十五歳にして飯沼弘経寺の首座となった。

貞安上人は、天正三年(一五七五)、能登七尾の西光寺にいたが、上杉謙信の穴水城攻めを逃れて、同四年に近江伊庭の妙金剛寺へ移る。

そこで、織田信長の帰依を受け、諸所にて道俗を教化のため説法をする。天正七年二月十八日、貞安上人の斡旋により知恩院は織田信長より、寺領百石の加増を受ける。

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開山 聖譽貞安上人


  勝念寺蔵

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貞安上人は織田信長より安土田中に寺領を賜り、能登七尾の西光寺にならって、龍亀山西光寺を建立し、信長の庇護の下、安土における浄土宗の発展に寄与した。 天正七年(一五七九)五月二十七日、信長の命をうけ、安土浄厳院で行われた宗論に参加、即ち勝利を得たことで信長の信任を得る。時に四十一歳。 
 

天正十年(一五八二)本能寺の変で庇護者 信長を失った貞安上人は、翌天正十一年上洛して淨教寺に入り、上人を慕って道俗群集したという。京都所司代村井貞勝は貞安上人を尊信して小釈迦と称した。天正十三年正親町天皇の勅請で御所に参内して「選擇集」を講じ僧伽梨大衣を賜る。翌十四年再び紫宸殿に上り説法して、陽光院親書の「阿弥陀経」を下賜される。

天正十五年(一五八七)正親町天皇の勅命により、信長、信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人に信忠自刃の地である御池御所を賜り、信忠の法名に因んで大雲院を開創した。

同時に、時の天下人 豊臣秀吉の城下町である伏見丹波橋に一寺を開創し、勝念寺と号した。

その後、豊臣秀吉が寺地の狭少なるを観て、天正十八年(一五九〇)六月 大雲院は、寺町四条南に移転を始める。同年七月十六日 後陽成天皇より勅願所の綸旨を賜う。翌十九年二月二日後陽成天皇宸筆の勅額を賜る。

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慶長四年(一五九九)九月十六日大雲院移転工事が終わり、落慶法要に際し、華道に秀でた貞安上人は初代池坊専好の指導の元、浄土宗寺院のみならず他宗派本山の僧八十八人他、武士や町衆百人が百個の銅瓶に花をいけて、その出来映えの優劣を競う「百瓶華会」を催し絶賛をあびた。

 

文禄3年(一五九四)8月24日 石川 五右衛門は、京都市中を荒らしまわり、豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に釜煎りの刑にされた。

五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(四条寺町下ル)の前に至った際、貞安上人から引導を渡された。大雲院に墓があり、戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」

 


文禄4年(一五九五)7月15日、関白豊臣秀次は秀吉から謀反を疑われ切腹させられ、8月2日秀次の妻妾、幼児など30余人が三条河原で打首となった。

その時、貞安上人は恩義のある秀次を思い、(秀次が近江八幡城を築城した時に、貞安上人が住職をする安土西光寺を近江八幡に移させ、秀次の祈願所となり、築地、土塀、堀など堅固に造営した。以後 秀次と貞安上人が親交を結ぶ。)刑場の一隅に地蔵尊を運び込み、次々と首を打たれる子女達に引導を授け続けた。

 

その跡地に、慶長16年(一六一一年)角倉了以が、秀次と彼の一族の菩提を弔うために、瑞泉寺を建立した。ここに貞安上人が、子女達に引導を授け続けた「引導地蔵」が祀られている。
 

平成26年(二〇一四)8月 京都河原町通四条下ル大雲院跡地から豊臣秀次の供養塔の一部が見つかった。五輪塔下の基礎部分に「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」の文字が刻まれていた。貞安上人がひそかに秀次の菩提を弔うべく建立したと思われる。

日向国佐土原藩初代藩主島津以久は、晩年(慶長年間)伏見に在住したとき、貞安上人に帰依し、浄土宗に改め剃髪受戒し、「わが子孫永く大雲院の檀那となり、上人の遺法を護らしめん」と上人に約定した。以後毎年米100石の寄進を受ける。


関ヶ原合戦の後、島津本家と徳川家康の和睦交渉に伴い、慶長8年(一六〇三)10月、徳川家康は島津以久を伏見に呼び寄せ、日向国佐土原領を与えた。以久は家康の「御恩」に感謝し、翌9年、側室とその子忠興を人質として伏見に差し出した。


徳川幕府は慶長14年(一六〇九)丹波篠山城の普請を佐土原藩に命じ、慶長15年(一六一〇)、島津以久は普請の督励のため上京するが、4月9日、伏見で病を発して他界した。享年61歳。貞安上人の引導によって大雲院に葬られ「高月院殿前典厩照誉宗恕居士」と授与された。
その後、家来の日高大炊左衛門、猿渡左近之允、肝付治部左衛門、久保権太兵衛の4人が殉死した。4人の墓も以久の墓を囲むように建っている。

貞安上人位牌

貞安上人供養塔

 勝念寺「焔魔法王尊像縁起」より

 

「天正十五年當寺(勝念寺)を建立して隱室として慶長廿年まて住持したまひける同とし五月十六日東照神君の招請により二条の御城内におゐて拜謁法談したまふ五月末つかたより病の床につきたまひしか心地例ならす

終焉程あるましとて安誉を招たまひ遺言等申置たまひ形見にとて直筆の法名を安誉に授与したまひそのうへ予は江刕に西光寺佐州に大安寺洛に大雲院を開基せしめぬれは此寺(勝念寺)は汝開山となりて衆生済度すへしとて授与し給ふにより安誉有かたく領承して當寺へ移住したまひける

 

終に七月十七日臨終の期ちかつきぬとて称名念佛をはけまし目出度徃生の本意を遂たまひけり」

             

元和元年(一六一五)五月十六日二条城で徳川家康に謁して殊遇を受ける。同年五月二十七日大雲院を法嗣の貞傳に附属し、また伏見勝念寺を高弟安誉貞保に附属した。境内の栖養院に隠棲し、七月十七日に大往生。時に瑞雲が林を覆い、天華が龕に落ち、群集の道俗はみな随喜の涙を流したという。

世寿七十七、法臈六十七。

聖譽貞安上人は近世浄土宗の発展に大きく貢献し、力があった人である。

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