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焔魔法王尊像縁起

これは昭和女子大学教授 関口静雄先生が

勝念寺蔵『焔魔法王尊像縁起』を翻刻されたものです

焔魔法王尊像縁起
山城國伊郡伏見丹波橋

    安養山勝念寺

抑當寺焔魔法王尊像のゆらひをくわしく尋奉るに攝州に清澄寺といふ山寺有俗にきよし寺ととなへける其寺に慈心坊尊惠とて貴き聖おハしけるもとハ叡山の学侶ニていみしき法華持經の人なりしか道心をおこし離山して此寺にすまれける人ミな歸依しけるとそ
承安二年壬辰十二月廿二日の夜常の佛前にて法華讀奉られける所に夢ともなく現ともなく浄衣に立ゑほし着たる男の立文を持て來ル尊惠あれハいつくよりの人そととわれけれハ焔魔王宮よりの御使なり告文候とて尊惠にわたす披見せらるゝに

 崛請

 閻浮提大日本國攝津國清澄寺慈心坊

 右来廿六日於焔魔廳以十万人之持經者可

 被轉讀十万部之法華經冝被參勤者依

 焔王宣崛請如件

 承安二年壬辰十二月廿二日丙辰丑時   焔魔廳

とかゝれたり尊惠いなミ申へきにあらねハ領掌の請文を書て奉ると見て覚にけり例時の程になりけれハ寺へ出て勤行おハりて院主の光陽房その外老僧一兩人に此趣をかたられけれハ聞人身の毛よたちて昔もさるためし云傳へたり其用意有へしと有けれハ其後ハひとへに臨終のおもひをなし口に佛名をとなへ心にゐんせうの悲願を念しいよ〱おこたらす勤行したまふ万僧きそひ來りてとふらひ申けるすてに廿五日
の夜に入て心地れいならす丗中心ほそくおほえて打卧けれハやかて息絶にけり
扨次の日午の時はかりにいきかへりて若持法華經其心甚清浄の偈を此五行ほと誦せられつゝ其後起あかりて冥土の事共かたられけり夢ともなく現ともなくさきの男來りて早參せられよとすゝむ尊惠參詣せんとするに衣鉢なし如何とおもふに法衣しせんと身にまとひ天よりこかねの鉢を下し二人の従僧二人の童子十人の下僧七寳の大車寺坊のまへに現す則乘車して西北にむかふて空をかけるとおもへハ程なく焔魔羅城に至る
 
王宮の躰をミるに外廓渺〃として其内廣〃たり其中に七寳所成の大極殿有高廣金色にして更に凡夫の眼に及かたし大極殿の内四面中もんの廊に十人の冥官有て十万人の持經者を配分して各一面に着座せしむ講師讀師高座に上り餘僧法用して大行道し畢て開白説法して十万人僧經王轉讀す其聲冥界にひゝき罪垢をあらふ獄囚は湯鑵をいて罪人枷鏁を免かれたり焔王玉座にざし冥衆階下ニ列て聽聞有轉讀既畢て十万僧供養をのふ供養終りて諸僧歸り去ぬ
 
焔王尊惠をめしてしとねをもうけてすへらるゑん王ハ毋屋の御蘆の内におハし冥官冥衆ハ大床につらなれりさま〱の問答す尊惠千部の法華を冥衆へ勧進のついて日本の將軍大政入道清盛攝津の國和田の御崎にして千人持經者を請して丁寧の讀經説法侍りき殆とかの十万僧會のことくなりきと奏せられけれは焔王随㐂感悦して曰我其の僧讀經の時は影向衆として聽聞せしき淸盛入道ハたゝ人にあらす慈惠僧正の化身也故に我毎日三度つゝ礼をなすとて偈を授給ふ
 敬礼慈惠大僧正 天台佛法擁護者
 示現再生將軍身 悪業衆生同利益
汝此文を彼大相國入道にまいらすへしとていとまたひて歸るとおもひて覚ぬとそ此むね大相國入道へ申入られけれハなのめならすもてなしさま〱布施をひき律師にそなしたまひける
 
その後養和元年三月十六日いつものことく讀經し給ふまへのことく使の男來りて告文を渡す披見するに十八日に可來集之旨也けるにそさきのことくして心に待もうけらる十七日のよにいり勤行せられしにしきりに睡眠に催されて住房に卧けれハ又おの〱來りて早參をすゝむ則乘車して焔王宮にいたり十万僧につらなり法華經轉讀す
 
かたハらの僧語て曰大政入道淸盛罪悪深重によりて無間地獄に墮せり其因縁は人皇六十二代村上天皇の御宇應和三年禁裏淸凉殿にして南都山門の碩学をめし宗論の事有し慈惠僧正兩度すくれ玉へり南都松室の仲筭判者として參内せられけるか此兩人言談理義明らか也とて褒賞有ける慈惠仲筭いつれも權者の事なれハ宗旨の奥儀を極給ふ事いつれおろかハなかりけるとそ退座の後仲筭難文をもつて慈惠に論談有けれハ慈惠閉口して本意なくおもひ一念の恨ミを含給ふ
 
大政入道と生れたまひ南都の佛宇を燒拂給ふも此因縁によるすへて此大政入道悪業莫大なりといへとも善根又莫大也しかるに入道逝去の日より佛事作善のいとなミなく一もんけんそく合戦闘争をことゝし罪惡煩悩にくるしむ焔王あわれミたまひ此度の讀經は此入道の為の結縁と承るとかたりぬ轉讀畢ておの〱本國に歸り去ぬ尊惠は中もんに立てはるかの大極殿を見わたせは冥官冥衆焔王の御前にかしこまる有かたき參詣也
 
此頃年に後生の罪障を尋申さむとおもひ歩ミむかふ従僧童子下僧例を引て歩ミちかつくときに焔王座より立冥官冥衆悉クおりむかふ焔王のたまわく諸僧皆歸り去御房一人殘來る事いかんと尊惠答て我若年より法華轉讀毎日怠る事なししかりといへとも後生の罪障いまたしらす尋申さんか為也と焔王答て曰徃生と不徃生は人の信不信に有といへとも夫法華は三丗の諸佛出丗の本懷衆生成佛の直道也一念しんけのくとくハ五波羅蜜の行にもこへ五重てん〱の隨㐂のくとくハ八十ケ年の布施にもすくれたりされハ汝かのくりきによりて都卒の内院に生すへしと
 
又冥官にちよくして仰けるハ此人の一期の行作善之文箱に有取出て化他のひもん見せ侍れと仰けれハ冥官かしこまり取出てふたを披て讀立る一期か間おもひとおもひせしとせし事をつとしてあらわれすといふ事なし尊惠悲涕泣してねかわくは出離生死の要法證大菩提の直道をしめしたまへと申されけれハあいみんけうけして偈を咒して曰
妻子王位財券属 死去無一来相親
常隨業鬼繋縛我 受苦叫喚無辺際
此偈をふそくし又そはなる松を剪て焔王ミつからの尊像を制作し今日の嚫施とてたまわりしめして曰攝津の國に淸浄の地五ケ所有り淸澄寺其中の一也汝順次徃生の業をはげまし衆生済度すへしとていとまたひて南方の中門をいつる藥王菩薩ゆせ菩薩は二人の従僧と成多門持國は二人の童子と現十羅刹女は十人の下僧と変して隨逐給仕して車を東車にむかひ空をかけりて程なく歸りぬとおもへハ夢の心地して覚たり
 
左手を開き見れハ此尊像を掌中に握りましませる也竒特成し事ともなり夫より晝夜此尊像を尊敬しいよ〱道心堅固ニして誦經勤行はけまされけるそのゝち太神宮へ參宮まし〱下向道におもむき伊賀の國うへ野といふ所にとゝまり此尊像を安置して勤行おこたらすおハしける十王堂の聖と称して人ミなたうとミけり終に此所ニてめてたく徃生のそくわひをとけたまひぬ
 
丗〃を経て織田の信長公此所へ鷹墅有し時此尊像を拝見したまひ則寺領をなし給わり尊像を城内へ招請して厚く信仰まし〱けるしかるに天正七年己夘五月廿七日江刕安土浄厳院にして日蓮宗と宗論の事有し信長公の命によりて貞安論談に及則貞安勝利を得給ふ其趣具大雲院之記録四ケ度論ニ見タリ其褒賞として末代證據のため御朱印并に七種の寳物を貞安へ下したまわりぬ七種は
  焔魔法皇尊像 山雪盆石 若狹盆
  一休一枚起請 玉澗山水 弘法大師之作錢大黒板木
  軍配團
 右焔魔法皇尊像ハ則當寺の什物殘り六種は
 洛の大雲院の什物たり
されハ慈惠僧正は天台の佛法を擁護のため平相國入道と生れ南都の佛宇を燒拂給ふも修悪全ク性悪としめし給ふものならむかこれによりてこれをおもへハ信長又叡山を燒拂給ふもたゝ事にはあらし仲筭師の再來ともいわむか示現再生將軍身を示し給ふか慈惠は観音の垂跡仲筭又権者の化現淸盛といひ信長といひいつれも悪業衆生同利益の為ならんしかれハ大権方便の慈悲をもつて實業の衆生を濟度せんかために造罪招善のむねをしめし盛者必衰の理を顕し給ふにや悪業も善根もともに劫をつむて丗の為人のため自他の利益をなし給ふと見えたり
 
貞安和尚此尊像尊敬し奉られけるを弟子安誉渇仰他にことなるによりて安誉へふそくし給ふ授与の文
従織田信長樣我等被下置候十王雖為重
寶令譲与弟子心蓮社安誉候畢能〃奉敬
可有衆生濟度者也仍而如件
      大雲院開山教蓮社聖誉
慶長廿年夘夘月十四日      貞安判
     西光寺安誉
          参
右授与の文貞安和尚直筆則當寺(勝念寺)有之
同年五月十六日東照宮の依招請二条御城内におゐて拝謁法談し給ひ
 
月すへより異例の心地有により安誉を招たまひ當寺(勝念寺)をふそくし住持候へとのたまふ故安誉有難く領承して則西光寺より當寺(勝念寺)へ移住し什物等将來候也夫より此焔魔法王尊像第一の什物として諸人に結縁せしむるもの也
 
尤當寺(勝念寺)は天正十五年に貞安上人開基建立して慶長廿年まて廿九年の間上人兼帯の隱室たり慶長廿年六月に弟子安誉へ譲り七月十七日に示寂したまひけり凡日本一州貞安聖人の事しらさる人もなし又この十王尊像の事ハ宗論の因によりて平の淸盛公追善の嚫施として冥主焔王御直作の尊像閻浮に出現数百年を經て平氏信長公の御手に入そのうへ宗論の嚫施として貞安聖人へ下給わるもしかるへき因縁ふしきといふへきもの欤聖人は尊惠の再來かしらす
 
本朝無双の尊像仰てもあほくへく貴てもたうとむへし極悪深重の衆生値遇の結縁をなし二丗の悉事をいのり奉るへきもの也
教蓮社聖誉上人貞安大和尚の初生ハ相模の國黒沼郷平家北条何某の子にてそ有ける七歳の時同國小田原大蓮寺堯誉上人を師として入寺せしめらる十一歳にして祝髪受戒し給ふ学文の檀林は飯沼の弘經寺堯誉弘經寺へ轉住有ける故則師に隨て移住したまひ修学して伴頭たらしむ
能登の國七尾といふ所西光寺より招請によりて始て住寺し給ふ織田信長公歸依により江州田中といふ所にて西光寺といふを建立して住職せしめ給ふ其後佐渡の國に渡り大安寺といふを開基建立したまひ又江刕西光寺へ還住し給ふ
 
織田信長公明智日向守為に薨去なりしその地を貞安へたまわり堂宇を建立して大雲院と号す室町御池の御殿也今京極四条移ス則住職したまひ西光寺は安誉に住持せしめ給ふ
當今正親町院奉勅詔禁裏におゐて説法あまたゝひなり堂上堂下歸依したまひて衆生濟度の利益も廣かりける其後天正十五年當寺(勝念寺)を建立して隱室として慶長廿年まて住持したまひける同とし五月十六日東照神君の招請により二条の御城内におゐて拜謁法談したまふ
 
五月末つかたより病の床につきたまひしか心地例ならす
終焉程あるましとて安誉を招たまひ遺言等申置たまひ形見にとて直筆の法名を安誉に授与したまひそのうへ予は江刕に西光寺佐州に大安寺洛に大雲院を開基せしめぬれは此寺(勝念寺)は汝開山となりて衆生済度すへしとて授与し給ふにより安誉有かたく領承して當寺(勝念寺)へ移住したまひける
 
終に七月十七日臨終の期ちかつきぬとて称名念佛をはけまし目出度徃生の本意を遂たまひけり
  文政六年癸未年七月修補之 見住十四世諦譽義禅(花王)

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